桂林禅寺
本尊 聖観世音菩薩
桂林寺のご本尊は、開基の松嶺隠之尼禅師(上杉定勝の長女、徳姫)が京都よりお守りし持ち来られ当寺に安置された、と伝えられる古像です。
開創1628年、寛永五年より安政江戸大震災や東京大空襲、関東大震災など幾多の震災、戦災などをすべて運良くまぬがれ現在に伝わっている、大変霊験あらたかな観音さまです。
また「土屋但馬守」家中の人たちが「観音講」と称して供米(仏に供える米)などを施したことが、当寺伝存の古文書に記されています。
この木像・聖観世音菩薩坐像の作者については、当時の住職古同和尚の記録によると、享保十二年(1727)閏正月三日に記した記録によると「作は何共相知らず候」と書かれていますが、『五葉庵遷地記』の同年七月十七日の記事には、これにつて興味深いことが書かれています。
この日、古同和尚は光雲という仏工を呼んで、本尊の目利き(鑑定)をしてもらいました。光雲の鑑定の結果は、この御像は仏師の作とするならば安阿弥という一流の仏師の手になるものか、さもなくば安阿弥に師事した仏工の作と考えられること。像全体はおよそ七十年前(すなわち明暦三年・1657年前後)に製作されたものと思われるが、そのころの仏工でこのような作風をもっていた者には、祐覚という仏工などがいること、といった内容でした。
これに対して古同和尚は、実はこの御本尊は仏師の作ではなく、「林丘寺宮」二十五歳の時の御作と聞いている。これは仏像の鑑定に精通している麻布・光林寺(臨済宗)の先代住職(当時)である霊源和尚の鑑定による、と答えています。下記はその記事の全文です。
五葉庵本尊を仏工光雲に目利きする事
一、七月十七日 辛未 万屋市太夫手元仏工光雲と申す者を召して、本尊聖観音の像軀、其作者誰なるといふ事を見せ問ふ、光雲いわく、面貌・衣紋甚だ是奇有なり、殊に仏師ニて申さバ安阿弥と極め候て違い無く候、若し仏工ニて御座候ハバ、安阿弥様を御師ニて作りませられ候者也、安阿弥ハ仏工の品ニテ申セバ上品第一也、権化ノ細工、慧信の上ニ出候、若し御尋ねニて候得バ、無価ニテ御座候、御長ハ 一尺五寸 と申すニて御座候、惣じて唯今迄、カ様の殊勝成る御出来ハ拝見仕らず候、七十年前程と御見られ候、七十年前ニカ様ニまね造り申す可きハ、祐覚と申す仏師などニて之れ有る可く候由を申す、拙僧申し候ハ、左候ハバ申し聞く可く候、仏師の作ニてハ無く、林丘寺宮二十五才の御作也、もと古仏造りの所、四十年前ニ彩有るをあやまりて泥をつけ候由申伝え候、光雲申し候ハ、左様ニも御座有る可く候、宮様の御作、我等江戸仏工ニてしかじか見知り奉らず候故、目利ニハ申上げず候得共、御印相彼是ただならぬ御有様ニて御座候、拙僧申し候ハ、麻布光林寺先住霊源和尚、仏像の目利ニ精しく候事、諸人も許す程の事、五葉庵に此くの如きの本尊御座候をも存ぜられず、不図参られ拝せられ、林丘寺宮の御作紛れ無く候、如何様の訳ニて当庵安置アル哉と尋ねられるニ付、しかしかの事と申し候へバ深信仰有りしと也、光雲申し候ハ、左候ヘバ仏工の目利ニ及び申さず、慥成る御事御座候、霊源和尚様御事ハ仏師及び申さず、御目をかり申し候事度々ニて候いキと也、
右本尊を仏工ニ見せ候節 とひ答の趣也、
ここに「林丘寺宮」とあるのは、後水尾天皇の第八皇女・光子内親王で、現在も京都市左京区修学院林ノ脇にある臨済宗系の単立寺院・聖明山林丘寺の開山照山元瑶のことです。延宝八年(1680)に崩御された後水尾院の遺勅により、光子内親王が薙髪して、朱宮御所(音羽御所)を仏寺としたのが、すなわち林丘寺です。
当寺の御本尊聖観音像は、光林寺の霊源和尚の鑑定に従えば、宮様(皇族)の御作ということになるのです。いずれにせよ、京都で作られたことは確かです。(註=御本尊の御長は一尺五寸とあるが、実寸は六十センチある)